カンタレラ

瞼をゆっくりと開くと、そこは塩の臭いで溢れていた。
翳む眼をこすろうと手を持ち上げた所で、自分が水に浸かっている事に気がついた。
下半身が水に浸かり、上半身は辛うじて物にひっかかって浮いている状況だ。
揺り篭の様な感覚から覚醒し、慌てて傍にある物にしがみ付く。

周りを良く見渡すと、水路の様な所へ落ち込んでしまったらしい。
塩の臭いがする事から、この水路は海へ注いでいるのだろう。
ふと天井を見上げると自分が随分高い所から落ちたのが分かる。
地下水路内は光が全く射さず、どれくらい広いのかもはっきりとしない。
軽くたてた水音も、尾を引いて辺りに広がる。
水底を蹴り水路の端を目指す。
目に付いた錆びた梯子を登りきり、スーツの上着を脱ぎ捨てた。
髪も眼鏡も水に濡れてしまって気持ちが悪い。
銃も水が入ってしまった。中まで乾くまで使い物にならないだろう。
それに水の中では気がつかなかったが右足を痛めてしまっている様だ。
鈍い痛みがひっきりなしにインテグラを苛む。

(・・・・全く、何てザマだ。)
金色の長髪を遊ばせたまま、一つ溜息をつく。
・・・自分はどのくらいの時間、この水路にいたのだろう。
レオナルドの自分を呼ぶ声を最後に、暗闇へと意識を持って行かれた。
(ハインケル達に状況が早く伝わればいいが・・・。)
いつまでもこうしては居られないと、インテグラは片膝を突いて立ち上がった。

先程からあちこちから視線を感じる。
従僕の其れとはまた違う、殺気を隠そうともしない視線。
夜族独特の視線に晒されるのは慣れているが、この城の視線は少し違う。
堪えられなくはないが、甘んじて受け入れるには強靭な精神がいる。
ひたひたと身に染み込む毒の様な視線。
(アーカードはこの事を言っていたのか?)
痛めた右足を庇って歩く為、必然的に歩みは遅くなる。
今、インテグラの影の中にはアーカードはいない。
自分の身は自分で守らなければならない。
ホルスターには湿気た銃、懐には法儀済のナイフが入っている。
もし万が一にでも今、吸血鬼でも出ようものなら窮地に陥る。
一刻も早く合流しないと。離れ離れになったレオナルドの身も心配だ。
幼い頃、父に教わった道に迷った時の対処法を思い出す。
迷路の様に広がる地下水路の壁に、ナイフで等間隔で目印を付けながら進む。
あわせて壁に片手を付き、その手に沿って前に進む。
石造りの壁は意外にもろく崩れやすい。

一度、外洋へと続く鉄格子に行き当たったが、鍵が無い為通り抜ける事ができない。
暗闇に包まれたここから見る外はなんと美しく輝いているのだろう。
日はとうに昇りきり、水面にきらきらと照り輝いている。
影の向きから考えて、自分は相当の時間気を失っていたようだ。
溜息をつき、仕方なく引き返す。目印も変えながら別の道を探す。
石造りの小さな螺旋階段を見つけ、登っていく途中でインテグラは地下牢の様な物を見つけた。
警戒しながら中を覗き込むと、写真の中で見た風景が目に飛び込んできた。

床には割れた硝子瓶と、何かを縛っていたと思われる鎖。
飛び散った血潮が壁に、床に、天井に染み付いていた。
光も乏しく、静謐に閉ざされた空間でインテグラの心臓は激しく鼓動していた。
先程の視線が更に激しくインテグラを苛む。
悪臭に似た悪寒が体を駆け巡る。
牢の入り口を軽く押してみると、それはあっけなく開いた。
地下牢はファイルの写真で見たものと同じでそれほど大きくなく、
壁には一対の松明の残骸が残されていた。
飛び散った松明の欠片の中から大きいものを選んで、
細長く破ったシーツを巻きけてライターで火をつける。
淡く部屋の輪郭が浮かび上がり、インテグラは軽く松明を掲げる。
天井には管のような物が垂れ下がり、仄かに薬品の臭いが残っている気がした。
残された血痕を指で擦ると、濡れた手袋に僅かに色が移った。
シーツには埃が堪っていて、黄ばんでいて異様に乾燥している。
床に散乱した書類を一つ拾い上げるが、まったく文字を判読できなかった。
書きなぐりの様な文字が何かで滲んでいて、要領を得ない。
松明を更に近づけ、よく読もうとした、その時だった。

ーーーーーーカチャン。

この牢の直ぐ隣で微かな音がした。
インテグラは弾かれた様に松明を壁に向ける。
耳に全神経を集中させ、耳を澄ませる。
ゆっくりと足音を立てずに廊下へ足を踏み出す。
やはりそこには暗闇と静寂しかなかった。
か細い明かりを頼りに、隣の牢の扉を開く。
金属の錠前が扉の所に落ちていた。
「・・・なんだ?新しいぞ、この錠前は・・・。」
それは半世紀の時を経たとも思えない、比較的真新しい錠だった。
松明の明かりを弾いて、きらきらと光っている。
不思議に思いながらも、扉を押しやると
そこには一人の人間がいた。
・・・いや、人間だった。と言った方が正しいのだろう。
壁に鎖で磔にされ、干からびて虫も集らない。
ーーーーーー完全にミイラ化した死体がそこにはあった。

カンタレラの研究の名残だろうか?
いや、レオナルドの説明ではカンタレラの犠牲者は婦女子と言っていた。
では、この死体は一体・・・。
手を伸ばし、手掛かりを求めて、服をまさぐった。
本来ならこんな盗人の様な真似などしたくはないが、仕方がない。
髪が赤みを帯びた短髪で骨太な事から、おそらく男だという事は判別できた。
それに着ている服からして、戦時中に死んだ物の服装ではない。
イタリア軍の腕章が千切れて傍に落ちていた。
だが軍服ではない。中途半端な服装だった。
落ち窪んだ瞳からは生前の面影は読み取れない。
この干からびた死体を見ていると、自分の従僕を思い出す。
忘れられた地下室で自分を守り、叔父の鮮血で濡れた手を伸ばしてきた男を。

「・・・・・アーカード?」

自分でも馬鹿みたいだが、呼ばずにはいられなかった。

「何だ。」

「!?っう、わああぁっ!!」
インテグラの叫び声が地下牢に木霊する。
それと同時に何かが砕けるような音が後を追って響く。
見慣れた紅い服の男が勢いよく床に倒れこんだ。
「・・・・っ!・・・・つっ!!」
心の中であらん限りの言葉で従僕を罵った。
アーカードは顎を擦りながらゆっくりと立ち上がる。
「いきなり何だ、インテグラ。顎が砕けたぞ。」
口元には明らかに、主人のあまりの動揺を面白がる笑みが浮かんでいた。
「いきなり耳元で声をだすなっ!驚くじゃないかっ!」
「名前を呼ばれたから返事をしただけだぞ?」
インテグラの怒りも意に介さず飄々と答える。
至極尤もな答えに、ぐうの音もでない。
話の転換を図ろうと、深く息を吸い込み落ち着かせる。
「何でここにいる。ハインケルとレオナルドはどうした。」
「お前が隠し部屋を探せと言ったのではないか。」
揚げ足を取り続ける男の眉間に一発食らわせてやりたいが、
この男には鉄建制裁など無意味なものだろう。
更に深呼吸する事で何とか感情を誤魔化す。
(・・・あぁ、葉巻が吸いたい。)
一人きりの緊張感から解放されたインテグラは眉間を押さえた。
「大体地下牢が暗すぎるんだ。そんな中で声を掛けられたら誰だって驚くだろう。」
「成る程。そう言われればそうかもしれんな。」
腕を組み、人を小馬鹿にした笑みをまだ口元に張り付かせ答える。
・・・本当に分かっているのだろうか、こいつは。
目を据えて睨みつけるインテグラの手から、不死者の男は松明を受け取った。
アーカードは松明に冷たい息をゆっくりと吹きかけると、
廊下の崩れた松明に一つ一つ明かりが灯ってゆく。

「これでどうだ、我が主?」
あっけに取られたインテグラに一瞥をくれたアーカードは松明を放ってよこした。
「さて、・・・・。」
部屋が明るくなった事で、先程の視線が和らぎ気を緩ませたインテグラは
今度はアーカードのぶしつけな視線に晒される事になった。
じろじろと上から下まで粘つくような視線を這わせる。
「何だ、何かあるんならはっきり言わんか。」
ふと、自分でも胸元から下を見てみると、
先程の地下水路でスーツの上着を脱ぎ捨ててきたために、
今のインテグラは濡れたシャツが体に張り付き、体のラインを露にしていた。
おまけに下着までスケスケになってしまっている。
「変態かお前、じろじろ見るな。」
男の態度にむかついて淡々と返してしまう。
「そこで悲鳴を上げれば可愛いものの・・・・。」
溜息をつき、自分が着ていた緋色のコートを着せ掛けた。
大柄な男のコートはインテグラが着ると、足が少ししか出ない。
腕も何回か袖を折り曲げないと指を出せない。
拍子抜けしたインテグラは今更ながらに地下牢の寒さにふるりと震えた。

「アーカード、この男は何故こんな所で死んでいると思う?」
「決まっている。殺されたのだ。
外傷もない、首を絞められた形跡もない。おそらく毒殺だろう。
ミイラ化しても、うっすらとだが紫斑が残っている。」
興味なさげに見やる瞳には憐憫の色も見当たらない。
「殺したのはこの男の血縁か、親しい人間だろうな。」
インテグラは驚いてアーカードを見据えた。
「牢に入れられた人間は入れられて日が浅ければ浅いほど、
騒ぎ立てて壁や床を素手で叩きつけるものだ。
暗闇の牢獄なら尚更狂った様に騒ぎ立てるだろう。
入り口の錠前の新しさからしてこの男が牢に入れられてまだ日が浅いはずだ。
指や手の甲に傷ついた痕も見受けられんし、何より爪が割れてはいない。
自分は直ぐに解放されるとばかり信じ込んでいたのだろう。」
インテグラは死んだ男の直ぐ傍にしゃがみ込み、松明を近づける。
「しかし、この男はミイラ化している。
死んでから相当な時間が経たんとこうはならんだろう?つじつまが合わんぞ。」
怪訝そうな声でインテグラが尋ねるとアーカードは事も無げに答えた。
「推察でしかないが、ここまで死体の状況が良いとなると
砒素系の毒物だろう、その毒の成分が死蝋化を助けて通常より早くミイラ化したのだろうな。
それにしても問題は、この半世紀放棄されていた城で死んでいるのかという事だが、
カンタレラの組織とは関連は見られるだろうが・・・・。」
ふとインテグラを見やると死体に向かって祈りの言葉を唱えている。
アーカードは言葉を続けず、じっとその様を見つめていた。
子守唄の様な旋律は、夜族の耳には死の髣髴とさせるものだが、
この女から紡ぎだされる言の葉だけは、なぜか不死の王の焦燥を安らげる。
インテグラは胸のタイから十字架を千切り取り、男の手に握らせた。
「行くぞ、アーカード。ここは生きている人間には寒すぎる。」
数分の後、インテグラは立ち上がり、アーカードを従えて振り返らずに地下牢を後にした。

「この城にはやはり何かがある。
先程のミイラといい、殺気の込められた視線といい、
放棄された後で、明らかに人の手が入った形跡がある。
レオナルドとハインケルの身が危ういかもしれん。
急いで地上に戻るぞ、アーカード。」
螺旋階段を足を庇いながら駆け上がると少しずつ足元が明るくなって来た。
塩の臭いが遠ざかり、光がおぼろげながらも崩れた瓦礫の隙間から射しこんでくる。
漆黒に彩られた闇の世界から足を抜き出し、ようやく城内の回廊へ戻ってきた。
闇に慣れた目には少し痛かったが、そうも言ってられない。
鉛の様に重くなってきた右足をどうにかして引き摺り、光の中を進む。
回廊を抜けると小さな絵が一つ、ぽつんと壁にくっついていた。
「・・・・行き止まりか、仕方ない一旦引き返して・・・」
振り向いたインテグラの顔に、従僕の胸がぶつかった。
思わず前のめりになり、アーカードを睨みつけると、男は扉を見据えている。
「絵を押してみろインテグラ。隠し扉だ。」
訝しげにインテグラは軽く押してみた。軽く音を立てて絵が向こう側へ開く。
その向こうには更に狭い回廊が続き、仄かに香の香りが漂っている。
着ている真紅のコートを胸元に手繰り寄せ、足を掛けた。
アーカードもその後に続き、霧が吸い込まれる様に身を滑らせた。