轍をのこして


白いシーツに広がる薬の臭い。
それら全てがインテグラにとってみれば慣れたものだった。
もう13歳になった自分を、膝に乗せる父に
インテグラは心底安心して胸に凭れかかった。
今日は幾分か気分が良い様だ。
半身を起こし、枕とベッドの背凭れに体を預ける父の顔色は
いつもより幾分かは血の気がある。
体に繋がれた心電図の機械的な音も、寸分たがわず繰り返されている。
毎日の様に感じる、父の周りの死の気配に
誰にも言えぬ怯えを隠すのが精一杯だったインテグラは、
その気配がなりを潜めた今日の父の様子に、
ほっと息をつき、張り詰めた緊張の糸を緩ませた。

「インテグラ。」

そう呼びかけられ、インテグラは読んでいた本を閉じ、
素直に父親の問いかけに答える。
「何の本を読んでいるんだ?」
「神学の本です。
ウォルターに図書館で借りてきてもらったの。
挿絵がとってもキレイで、宗派別に翻訳されているのよ。」
そうか、とアーサーは目を細めて笑う。
「私のフロイラインもそんな本を読むような年になったのか。」
「ふふ、私はもう13よ、お父様。」
インテグラは肩をすくめて笑う。

「本は良い。
人は身分を問うが、書物は身分を問わない。
大いに本を読んでたくさん知識を身につけなさい。」

目を細めてインテグラの頭をくしゃりと撫でる。
インテグラはどこか父の遠い物言いに、
胸の端が微かにざわつくのを感じた。
「・・・お父様、病気が治ったら、
図書館に連れて行ってくれるって言ったわよね?」

問いかけに無言でインテグラの頭を撫で続ける。
ようやく口を開いた。
「・・・インテグラ・・・
お前には普通の子供が得て、
体験できた殆どの物を与えてやれなかった。
この家に、私の娘に生まれたが為に
人外の者達の恐怖や修羅の感情、
その年齢以上の分別を身に付ける事を強要してしまった。
・・・・得られなかった物はインテグラ、お前が、
これから自分で拾い上げていかなければならん。
もう少し私に時間があれば、それら全てを拾い上げてやりたい。
お前の障害になりうる全てのものを遠ざけ、
お前の可能性を伸ばせる、光り輝くものだけを身の回りに置いてやりたい。
・・・が、その時間はなさそうだ。」
父は笑みを浮かべてはいるものの、どこか苦しげで
インテグラにはその表情の意味を汲み取る事ができなかった。
「お父様?お医者を呼びましょうか?
凄く苦しそう・・・大丈夫?」
「・・・・大丈夫だよ、ありがとうインテグラ。
親というものは生涯・・・子供の心配事から逃れられん。」
自分に似た金髪を愛しげに撫でながら、愛娘の頬に手を添える。
その手には芯からの温もりがなくなりつつあった。
インテグラも、常に無い父親の態度に
怯えた表情を押し隠す事ができなかった。
ベッドの下から感じる死の影にも似た冷気が
父を自分から引き離しそうで、インテグラはぎゅっと父の手を握る。

「そろそろ日が落ちてきたな。
明かりを付けてくれ・・・何も見えん。」
照明を調整しようと、膝から下りた所で気が付いた。
先程ウォルターが部屋を出て行くとき
もうすぐ日が落ちるからと
そこかしこ部屋中の明かりを点けて出て行った。
枕もとのテーブルにも煌々とランプが灯されている。
水の入った瓶とグラスが光を弾くほどに。
「・・・・これでどう?お父様。」
それらの照明に一切手を付けず、父親に問う。
「・・・・ああ。大分明るくなった様だ。
ありがとう、インテグラ・・・。」
にこりと微笑む父に、
あぁ・・・もう、駄目だ。と、
インテグラは悟る。

恐らく、朝にはもう父はこの世にはいないだろう。
頭の中で、もう一人の自分が冷静な判断をする。
先程から様子がおかしかった。
もう目は見えていないのだろう。
震える手で水を注ぎ、父の元へ歩み寄る。
「あの・・・お父様。
喉乾いたでしょう?はい、・・・お水。」
差し出された手がやはり冷たい。
熱いのに冷たい。
肌は燃える様に熱いのに、芯のない熱さ。
思わずコップを取り落としたインテグラは声が出せない。
インテグラの震える手に気付いたアーサーは、
一つ息を付くと、静かに言った。

「インテグラ、安心しなさい。
天国はきっと、とても良い所だよ。
行った人間が誰一人として帰ってこないんだから。」

核心に迫った父の言葉に、思わずインテグラは耳を塞いだ。
「インテグラ、よく聞きなさい。」
「いや! いや! やだ・・・っ・・・っ!」
幼子の様に首を振り、唇を噛み締めるインテグラを
アーサーは両手で抱きしめた。

「・・・・インテグラ。
人間の命は有限だ。限りがある。
その幕引きは神の御心のままにしか許されない。
不正や汚濁にまみれていても、老衰で死ぬ人間や、
細々と堅実に生きても、事故や殺人によって
突如亡くなってしまう人間もいる。
重要なのは死に方ではない。
そこまで至る過程の、生涯の轍(わだち)の深さだ。
そしてそれは私にも、お前にも言える事なのだよインテグラ。
背負う荷物が多ければ多いほど深く、永く残る。」
あやす様にインテグラの背中を広い手で擦る。
色素の薄い顔に、おぼろげな慈愛の表情が浮かぶ。
「死は誰でも恐ろしい。
人道を外れてでも回避したい、
認めたくないという気持ちは分かる。
苦痛には限度があるが、恐怖には限度というものが無い。
特にあの男は死ぬより、我ら人間に使役される道を選んだ。
それもたちの悪い事に、恐怖より恐ろしい感情の為に。」

インテグラは父が誰の事を言っているのかは解らなかったが、
自分の知る、父のあらゆる物事に対しての価値観の
仄暗い部分に影響を与えている存在には気付いていた。
「人間は生きられるだけ、生きるのではなく
生きなければならないだけ、生きるべきだ。
・・・・私にはもう時間が無い・・・。」
泣き声を押し殺しているインテグラは父の言葉に、微かに頷いた。

蝋燭の炎の様に、最後の一時燃え上がる様な煌きを父の目に見た。
ほんの少し開けた窓からは一陣の緩やかな風が入ってくる。

「・・子守唄を歌ってあげようか、インテグラ。」
かすれた父の声に、目を腫らしてインテグラは涙を拭く。
「もう、私13よ?お父様ったら・・・。」
はらはらと泣く愛娘の微笑を
アーサーは昔から変わらぬ慈愛の表情で見つめる。
「・・・でも、お願い。
お父様の声、もっと聞いていたいの・・・。」


お互いに明日がどういう日になるのか、解っていた。

幼い頃から聞きなれた、父の歌声に耳を傾けながら
インテグラは静かに目を閉じた。



大切な人の“死”って何度経験しても慣れないです。