逢魔ヶ刻
さくさくと草を踏みしめる音が薄闇に響く。
珱姫は夕闇に足を取られぬ様に、灯した提灯を低く掲げた。
時は逢魔ヶ刻。
辺りに霧がうっすらとたちこめ、
薄闇と混じり常世と現世の境界線があいまいになる。
魑魅魍魎共の跋扈しはじめる時刻である。
彼方に見える山の背が緋色と紫紺に滲む。
(・・・・遅くなってしまった。)
江戸の町外れに大規模な市が開かれるという事で
夫の着物の下地を見に、苔姫と江戸の町へ買い物に出かけた。
未の刻を半刻ほど過ぎた頃、苔姫だけ用事を済ませたので先に屋敷へ帰らせた。
帰ったら屋敷の者を護衛を遣すという苔姫を制して珱姫は買い物を続けた。
上等な生地を数反手に入れる事ができたが、
買い物に熱中しすぎたせいか帰りが遅くなってしまった。
しかも運の悪い事に、いつも使っている街道が一時的に封鎖されるらしく
大きく回り道をしなければ家路に付く事はできなかった。
大通りを抜ける際に、親切な茶屋の旦那が提灯を貸してくれた。
「もう秋も深いから、釣瓶落としの様にあっという間に日が落ちる。
悪い事は言わないからこの道を行くならこれを持っていきなさい。」
いくら妖怪の妻になったとはいえ、珱姫は人の子である。
段々と心を占めてくる心細さと闇への畏怖が帰路を急がせた。
ふと、前を見やると道の真ん中に子供がうずくまっていた。
年の頃はおよそ7〜8歳。
何事かを悲しむ様にしくしくと膝を抱えて座り込んでいる。
「あの、・・・もし?」
自らの息子、鯉伴に年恰好が近い事も手伝って思わず声をかけてしまった。
掲げていた提灯を地において、顔をよく覗き込む。
故郷の京都ではよく見た稚児姿に少し違和感を感じたが、
顔を上げた童の、瞳に一杯涙を溜めて自分を見る姿に
そんな気持ちは何処かへ飛んでしまった。
童はしっとりとした黒髪に、利発そうな顔をしていた。
「もし?どうしたのですか?どこか痛いのですか?」
見たところ怪我はしていない様だが、
童の絶え絶えに泣く様子が見るに忍びない。
珱姫は何か自分が力になれる事はないかと尋ねた。
「鞠を・・・。」
「鞠?鞠がどうかしたのですか?」
「鞠を失くしてしまったのです、
母上様に頂いた大切な物なのにっ・・・。」
そう言って、がばっと珱姫に泣きついてきた。
可愛らしい稚児の仕草に、よしよしとその小さな背中を撫でる。
「そう。大事なものなのですね。
私も一緒に探してあげましょう。
どの様な色の鞠だったのですか?」
ゆっくりと、落ち着かせる様に話しかける。
ぐずっていた童はおずおずと話し出した。
「このくらいの・・・真っ黒の鞠。
白糸金の文様がついているのです・・・。」
涙と鼻水を手拭で拭ってやると、ようやく落ち着いてきたのか、
有難う、と珱姫の小袖を握る。
黄昏に染まる頬を赤く染めて、珱姫はにっこりと微笑んだ。
鞠は直ぐに見つかった。
あぜ道の草深い所に引っかかって、
道行からは見つかりにくい所に転げていた。
しきりに礼を述べる童の名は『蔵王丸』と言う様だ。
あるやんごとなき姫君の御曹司として生を受け、
父親が若くして夭折してからは、
母と共に二人きりで屋敷に住んでいるらしい。
なんでもその母様は京都の名はあるが、貧しい公家の家に生まれ、
僅かな見返金と引き換えに武士の家に嫁いできたそうだ。
「まぁ、わたくしも京都から江戸へ嫁いできたのです。」
珱姫と蔵王丸は奇妙な偶然を驚き合った。
屋敷の周りには自分と同じ年頃の子供が居ず、
母から贈られた鞠を片手に、一人で遊んでいた所
うっかり鞠をどこかに失くしてしまい、
ほとほと困り果てて泣いていたとの事だった。
鞠が見つかった安堵感と嬉しさに
蔵王丸は生き生きと珱姫へ身の上を語る。
「あ、申し訳ありません。
足止めをしてしまいました・・・。
この街道を人が通るのは珍しいですから、つい。」
あわてて童は珱姫から身を離した。
「よろしければお屋敷まで道案内致しましょう。
ここら一帯は私の庭と言っても過言ではございません。」
女性の一人歩きは物騒ですと続けた蔵王丸に
珱姫はそうかもしれないと素直に同意し、道案内を頼んだ。
「良かった。お名前は何と仰るのですか?」
「わたくしは珱姫と言います。」
「珱姫?京都の、珱姫?
・・・・それは良い名ですね。」
じっと自分の顔を見つめる蔵王丸はにっこりと笑った。
今度は提灯を蔵王丸が持ち、珱姫は鞠を預かった。
鞠に触れた途端、ぞくりと背筋に悪寒が走ったが、
手を引く蔵王丸に遅れを取らぬように反物に鞠を包み込み
駆け足で後を付いて行く。
橙色と紫紺の霧の中に二人は消えていった。
「で?お珱がもう3日も戻らねぇのはどういう事だ。」
「江戸中のカラスを遣って調べさせているのですが、未だ何とも・・・。」
カラス天狗は、ぬらりひょんの目の前で頭を垂れ、状況が膠着している事を告げる。
仕切りを取り払った大座敷に、牛鬼・木魚達磨・狒々・雪女・一ツ目、
その他、大勢の奴良組の幹部が召集された。
大規模な出入りの最中に、
屋敷から、珱姫が連れ去られたとの一方が入った。
大急ぎで戻って来たものの、丸2日かかり、
屋敷に帰れば帰ったで、依然として妻の行方は分からない状況だった。
「御託はいい。
足取りだけでも分かればワシが探しに行く。」
すっくと立ち上がったぬらりひょんに、牛鬼が立ちふさがり制止する。
「何の手掛かりもなく探し回るなど、愚の骨頂です。
見つかるものも見つかりません。」
「牛鬼の言う通りです、総大将ここは冷静に。
鯉伴様が赤子だった頃もこういった事があったではありませんか。」
木魚達磨も総大将を諌めようと牛鬼に同意する。
「あれは理由もなく、3日も行方をくらませられる器用な女ではない。
何よりあの時は直ぐに屋敷に戻って来た。」
ぬらりひょんは牛鬼の胸倉を掴み、食って掛かる
「・・・・・・・。」
座敷に重い沈黙がおりた。
「わ。わらわが先に帰らなければ、姫様は・・・。」
一ツ目の傍に居た苔姫がぽつりと呟く。
苔姫は自分が珱姫を危険な目に合わせたと、憔悴しきっていた。
はぁ、と短い息を吐いて、ぬらりひょんはその場に座り込んだ。
「丁度苔姫も来ている事だし、苔姫から直接状況を聞いてみちゃあどうだ?」
一ツ目は苔姫の頭を撫でながら提案する。
「そうじゃ、何か分かるかもしれんぞ。」
ぬらりひょんの肩越しに狒々が声を掛ける。
「・・・・話してみろよ、何でも良い。」
ぬらりひょんに促され、苔姫はおどおどと口を開く。
「姫様とお買い物に江戸の外れまでご一緒したのです。
わらわの用事が先に終えたものだから、
姫様は先にお帰りなさいとおっしゃって・・・
いつも通る街道が何故か封鎖されていて、回り道をしたのですが
その道が気味が悪くて・・・・すぐに引き返して別の道を歩いて帰って来たのです。」
「気味が悪い?昼間だろう?何にも怖いことなんざありゃあしねぇよ。」
一ツ目が不思議そうに苔姫に問いかけると、
ぶんぶんと苔姫は大きく首を振った。
「だって、人の通りが全くないんですもの。
おかしいわ。一筋違えば人がごった返しているのに。
特にあの日は市が開かれていたから、江戸町内へ向かう街道は騒がしかった。
それに道に入ると直ぐ、道祖神様がたくさん置かれていたのです。
普通の数ではありませんでした。普通は一ついれば十分だもの。
通り過ぎる木に縄が幾重も張られていて、虫の声一つ聞こえない。」
「・・・・あの子なら、そんな雰囲気に気付かず
先に進んだのかもしれないわねぇ。」
明らかに鈍い、と暗にほのめかす雪女にぬらりひょんは否定出来なかった。
常人離れした常識の無さ。
天然と言えばそれまでだが、常軌を逸した鈍さが珱姫にはある。
「その道は分かるか、苔姫。」
「はい、わかります!」
突然ぬらりひょんを包む空気が変わった事に苔姫は驚いた。
「総大将、私めもお供いたします。」
カラス天狗が勺錠を鳴らして進言すると、
ゆらりと魑魅魍魎の主は座を立った。
「・・・・あの、ここは何処なのでしょうか?」
目の前には大きな門が立派に聳え立っている。
「何処って屋敷ですよ?」
当然の様に返答を返す蔵王丸は、不思議そうに珱姫を見返す。
門前の構えは明らかに自分の屋敷、奴良組の屋敷ではない。
妖怪たちのどんちゃん騒ぎも欠片も聞こえてこない。
「・・・・わたくしの屋敷ではありません、一体どういう事なのです?」
「おや?私の屋敷に案内致しますという意味でお話したのですが。」
「そんな・・・。」
早く帰らないと、いよいよ夜になってしまう。
夫であるぬらりひょんから宵に入ったら自分と一緒でなくば出歩くなと言われている。
出入りに出ているからといって例外ではないだろう。
なにより屋敷に置いてきた鯉伴が心配だ。
「母上はとても体がお弱いのです。」
突然ぽつりと呟き、悲しそうに顔を伏せる蔵王丸に、
憐憫の色を滲ませて珱姫は問いかける。
「まぁ、何か重い病気なのですか?」
「はい、色んな御匙にかかっても治りませぬ。
・・・ここで出会ったのも何かのご縁。
どうか一目でも私の母に会うてはくれませぬか?」
「えっ?・・・あ、あの・・・。」
珱姫は蔵王丸の急な願いに面食らった。
「あなた様は京都で有名な珱姫様でございましょう?
病気になった人々をたちどころに快方へ導く神通力をお持ちだとか。
あらゆる加持祈祷も母には効きませんでした。
もしかしたらあなた様の神通力でなら母は助かるかもしれません。
どうか、お願いです。
せめてお話をして頂くだけでも・・・。」
涙の混じったつぶらな瞳が必死に自分を見る。
握り返す小さな手を振りほどけない。
珱姫は子供の母を想う気持ちを断りきれなかった。
蔵王丸からは体が大層悪いと聞いていたが、
目の前の女は顔は青ざめてはいるが、健康そのものに見えた。
「あの、もし差し支えなければ京都での家名を伺っても宜しいでしょうか?
私も、京の都から江戸へ嫁いできたのです。ふふ、偶然ですね?」
珱姫が微笑んでも目の前の女は生気が抜けたかの様に反応を返さない。
「・・・あの・・・?」
目の前で手を振ってもちらりと見やるだけでまた呆けた様に虚空を見つめる。
それから一言二言、懸命に話しかけたが気味の悪い位に生気というものが感じられない。
「ご無礼をお詫びいたします、
母上様は先程お薬を飲まれてお加減がよろしくありません。」
申し訳なさそうに蔵王丸は深々と頭を下げた。
「え、ええそうでしたの。わたくしこそ御免なさい。」
この屋敷で二人きりで暮らしているのに、
母親が毎日の様にこうだと、蔵王丸は寂しくないのだろうか?
ふと、屋敷に居る鯉伴の事を思い出して、珱姫は胸を痛めた。
「あの・・・わたくしそろそろ帰りませぬと夫が心配致します。
またこちらへ寄らせて頂く事があるかもしれませんので、
今日の所はこの辺りで失礼・・・」
「あぁ、やはりご気分を害されたのですね・・・。
貴女様に来ていただければ、
母上様のご病気もいくらかは軽くなると信じておりましたのに。
病気を治していただく前に、ご気分を害してしまうとは・・・。」
呆けた母の傍らでさめざめと泣かれてしまうと
こちらが悪い事をしてしまった気分になる。
「い、いえ。そんな事はありません!」
あわてて蔵王丸へ弁解の言葉を伝える。
すると蔵王丸はほっとした様ににっこりと笑った。
「それでしたら良かった。
・・・・そうだ、姫様!
お帰りになる牛車の用意をさせますゆえ、
時間がかかりましょう。
その間、すこしの時間だけでも良いのです。
私と遊んでくださりませ。
私がいくら寂しくとも、母上様は見ての通り。
遊び相手にはなってくれませぬ。」
珱姫の袖に縋りつきながら、蔵王丸は懇願する。
「えっ?・・・まぁ、少しだけでしたら・・・。」
珱姫は内心、少しでも早く屋敷へ帰りたかったが
母性が勝ったのだろう、願いをはねつける事ができなかった。
嬉しさで抱きついて来た蔵王丸の頭を撫でながら、溜息をついた。
「ひと振り小枝に紅椿 ふた振りすれば梅の花
みっつ重ねて藤代の 千代の往き路に白桜。
宵の行灯 夕篝(ゆうかがり)
重ね重ねの笛の音に 十紙十色の花の香。」
涼やかな声に乗せてお手玉が乱れなく宙を舞う。
蔵王丸は楽しそうに母親の傍で歌の後を追う。
相も変わらず母親は虚空を見つめてぼうっとしている。
屋敷の中は水を打ったように静かで
ただ、珱姫の歌う声だけが屋敷に響く。
ふと、珱姫は思った。
もしやこの人達は妖怪なのではないか。
それに先程から感じていた違和感。
いつまでたっても日が暮れないのだ。
この屋敷たどり着いて、ゆうに半刻は経っている筈。
なのに沈みかけた夕日はまんじりともせず黄昏に空を染めている。
それに先程、母親と二人きりで屋敷に住んでいると言わなかったか。
牛車の用意をさせると言ってはいたものの、
牛の世話をする者達は一体どこにいるのだろう。
この屋敷には人の気配さえ微塵も感じさせない冷たさがあった。
しんとした静かさに、珱姫がやっと場の雰囲気に恐怖を感じたが、
傍にいる童に気取られてはいけない。
鬼灯の色をしたお手玉を歌にのせてぽんぽんと空に投げる。
「珱姫様はお歌がお上手ですね。」
ひととおり歌い終わった珱姫へ、両手を叩いて駆け寄る。
「母上様もとってもお歌がお上手なのです。」
さぁ。とお手玉を拾い上げ、母親の目の前に翳した。
急に話を振られた母親は、恐ろしい者でも見る見るかの様に蔵王丸を見た。
「ほら、母上様歌ってみてください、お手玉はお上手ですよね?」
蔵王丸が話しかけても、口をぱくぱく泳がせるだけで応えようとしない。
その様はまるで、壊れたカラクリ人形の様だった。
蔵王丸のお手玉を母親に差し出した手が僅かに震えた。
「歌えと言ったら歌うのだ!」
急にしわがれた女の声が蔵王丸の口から飛び出した。
「お、お許しくださいませ!く、蔵王丸様っ!!」
やっとまともな言葉を話したかと思うと、我が子に蹴飛ばされ
無防備な顔へお手玉を勢いよく投げつけられた。
「ひいっ!」
お手玉を投げつけられた母親は、傍にあった御簾に倒れこみ、
身を伏せ、両手を合わせて蔵王丸に懇願した。
「わ、私はもう十分にお傍におりました!
どうか、どうか、お願いでございます!
私を元の現世へとお戻し下さりませぇ!」
震えながらも蔵王丸の足元へ縋りつく。
無表情でそれを見下ろすと、ぐいと母親の髪を掴んだ。
「歌の一つも歌えず、何が母親か。
わたくしの蔵王丸は手毬歌が好きなのは存じておろう?
それをそなたという女は・・・ほんに使えぬ女じゃ!」
震える女を睨みつけ、雑言を吐き捨てる。
挙句、足で女を更に蹴飛ばし、何度も踏みつけた。
「お、お許しを・・・ひいぃ!」
途絶え途絶えに聞こえる叫び声に、珱姫は思わず声を上げた。
「病弱なお母上様を足蹴にするなどと・・・!
なんと言う事をなさるのです、おやめなさい!」
叱り付ける様に叫ぶと、蔵王丸は思い出した様に珱姫を見る。
「・・・おおぉ。そうじゃ、そうじゃった。
わたくしとした事が、失念しておった。」
先程の剣幕とは打って変わって嬉しそうに微笑む。
その ぞっとする様な口元に、背筋に寒気が走る。
「何もこの女に執着せずとも、調度良い代わりがおった。」
足を女から退けて、真っ直ぐに珱姫を見る。
「珱姫、そなたは今日より蔵王丸の母となるのじゃ。」
珱姫は蔵王丸の放った一言に耳を疑った。
「そんな事、できません!
わたくしには鯉伴という子がおります。
夫もいる身です、早く屋敷に帰してください!」
「帰れると思うたか。ほんに世間知らずの姫君よ。」
けらけらと笑う蔵王丸に、珱姫は自分は騙されていたと確信した。
やはり妖怪の類だった。それをのこのこついて来てしまうなんて。
慌てて庭に走り出るも、見えない壁に邪魔をされ、そこから先に進む事ができない。
「この女も最初はそうして外へ逃げようとしたが、
今はこの通り従順なものじゃ。
ここにいる限り、その美貌も寿命も変わらず生きられる。
なにしろこの屋敷の中では時が止まっておるからの。」
「あの方は母親ではなかったのですか!」
「当たり前じゃ。あんな使えぬ女初めてじゃ。
入れ替えをせねばならんと思っておった所にお前が来たのよ。」
踏みつけられ、息も絶え絶えになった女が庭まで転がり落ちてきた。
「お、お逃げなさい!この子には・・・怨霊が取り憑いています!
貴女だけでも、は、早く・・・・逃げ・・・・」
「お前はもう用済みじゃ。」
蔵王丸が吐き捨てるように言う。
その目はやや切れ長の物に変わり落ち窪み、
先程までの可愛らしい風情からは想像できない面相になっていた。
足にしがみ付いていた女を足場に、蔵王丸が庭へ下りてくる。
珱姫は弾かれたように庭の見えぬ結界を叩いた。
「た、助けて!助けて妖様ぁ!」
じゃり、じゃり、と庭の石を踏みしめて
ゆっくりと蔵王丸が近付いてくる。
「光栄に思え。お前は蔵王丸の母として悠久の時をここで過すのじゃ。」
にたりと笑いながら真っ直ぐに珱姫へと向かってくる。
珱姫に縋るものは何も無く、ずるりと地面へへたり込んだ。
「阿呆、お珱の子供はワシの子だけじゃ!」
結界を破る雷の様な音と共に、百鬼夜行が現れた。
先頭には白髪の男が妖気を漲らせ、蔵王丸の眼前に祢々切丸を突きつけた。
突然結界を破って現れた男に、一瞬怯んだ様に後ずさる。
「ワシのお珱が世話になったようじゃのう。」
静かに、だが凛としたドスのきいた声色に空気が震える。
「なぜわたくしの結界が解けた。男、応えろ!」
「お前がワシより小物だからさ。」
鬼のような形相で蔵王丸が睨みつけると、
さも当たり前の様に男は応える。
「妖様っ!」
珱姫は座り込んだ状態でぬらりひょんへ手を伸ばす。
「ちょっと待ってろ、お珱。
しかし子供の姿のままじゃあ切りにくいな。
中の奴、とっとと出て来い。」
いるんだろ?と肩眉を上げて挑発する。
「男、なかなかに良い男じゃのう。
・・・・名は何と言うのだ?」
「てめぇに教える名なんざないさ。」
ぬらりひょんの挑発には乗らず、蔵王丸は話を反らす。
「お前の名を一言、言えば姿を現すのはやぶさかではない。
どうじゃ?簡単じゃろう?
自分の名じゃて。忘れたとは言わせんぞ?」
粘りつく様な視線に、ぬらりひょんは牛鬼に目だけで合図を出す。
「“カラス天狗”様、珱姫様が怯えておいでです。
ここは一旦退く事が一番かと心得ます。」
牛鬼が傍でぬらりひょんに向かって進言する。
一拍子置いて、にたりと笑った蔵王丸は大声で呼ばわった。
「カラス天狗とやら、
お主はわたくしの傀儡じゃ。
後ろにはべる雑鬼どもを一人残らず殺してしまえ!」
言い終わらぬ内に、ぬらりひょんの隣に居たカラス天狗が刃を向けてきた。
「やっ、ややっ!総大将!
か、体が勝手に、これはどうした事じゃ!」
ばたばたと羽をはためかせて身悶える。
「名前で相手を縛るなんざ、洒落た趣味じゃねぇか。」
片手でカラス天狗の刃を退きながら、蔵王丸へ問いかける。
「牛鬼、狒々、雪女ぁ、誰か止めてくれ!」
「うっわ。面倒な事この上ないわね。
何でまたカラス天狗なんか選んだの?」
呆れた様に雪羅が牛鬼を睨みつける。
「一番被害が少なそうな奴を選んだまでの事。」
「こ、これだからインテリは嫌いじゃあ!」
半ば泣きながらカラス天狗は攻撃の矛先を向けてきた。
「心の蔵まで凍らせてあげるわ。」
美しい口元から吹雪を巻き起こし、カラス天狗を一瞬で氷付けにする。
カラス天狗の断末魔が空しく黄昏の空へ消えてゆく。
「お珱、行くぞ。しっかり掴まってろよ。」
耳元で夫の声が聞こえたかと思うと、
珱姫はふわりと抱き上げられた。
僅かな驚きの声は、ぬらりひょんの胸元で掻き消される。
「しっ、声を出すな。」
口元を押さえながら、こくこくと頷く珱姫に
ぬらりひょんの顔に笑みが浮かんだ。
「しっかりと掴まっておれよ。」
返事を待たず、畏を身に纏う。
突然目の前から消えた男に、蔵王丸は瞠目した。
「おのれ、謀ったな!
姫を返せ、珱姫は蔵王丸の物じゃ!」
ゆらりと姿を消したぬらりひょんに蔵王丸の罵声が飛ぶ。
「どこじゃ、どこにおる!」
「妖様・・・これは一体・・・?」
氷付けになったカラス天狗を呆然と見る。
「名はこの世で一番短い呪じゃ。
これからは容易に名を明かすんじゃないぞ。」
飛ぶ様な足取りで屋敷の奥へ駆け抜ける。
「あ、結界の裂け目は反対側です!」
慌てて夫を引きとめようと声を掛ける。
「こっちで良いんじゃ。
結界を破らん事には、ワシら百鬼夜行はまだしもお前が出られん。
呪はお前に掛かっておるからな。まずは術者を消さんといかん。」
ぬらりひょんは迷いもなく、真っ直ぐに屋敷の最奥を目指した。
襖を開けても開けても同じ部屋。
行灯が隅に一つだけ置かれ、
庭先から遠く離れているのに黄昏色の光が部屋を満たす。
「あ・・・妖様・・・。」
怯えを押し殺す様に夫を呼ぶ。
「なぁに。大丈夫じゃ。
直ぐにここから出られる。」
ぬらりひょんは言葉とは裏腹に、真剣な目をしている。
珱姫が縋りつくと、落ち着かせる様に腕に力を込めた。
「こりゃあ手間取るな。」
真後ろから狒々の呆れた声が聞こえた。
思わず珱姫はびくっと身を竦める。
「簡単には出られますまい。
やれやれ・・・・面倒な物に誑かされたものだ。」
狒々の言葉に同意する様に牛鬼が隣の部屋から出てきた。
「いっそ天井を突き破るか?」
楽しそうに狒々が笑うと、牛鬼は面白くなさそうに鼻で笑った。
「やめろ。ここで変化を解かれて大猿にでもなられたら
今度こそ珱姫様が気を失ってしまわれる。」
牛鬼なりの冗談なのだろうが、ちっとも笑えない。
「あの童はどうした?」
ぬらりひょんは目の色は変えず狒々に問いかける。
「雪羅が足止めしておる。
しばらくは大丈夫そうだが、そう時間はないぞ。」
狒々の言葉を聞いて、ぬらりひょんは珱姫を下ろした。
時間がないというのに、夫の取った行動に目を白黒させる。
急かそうと口を開くのと、ぬらりひょんが珱姫に問いかけるのはほぼ同時だった。
「それにしても、お珱。さっきから何を持ってる。」
「え?」きょとんと自分の手元を見る。
置いてきたはずの反物が手元に戻ってきている。
「え・・・あ、あの部屋へ置いてきたはずなのに・・・。」
「決まりだな。」
「灯台元暗しとは正にこの事。
珱姫様がお持ちだったとは。」
狒々が身をかがめて反物をつつく。
「いやぁ、知らずによく持てたもんじゃ。
しかし悪趣味じゃのう。」
狒々の無遠慮な言葉に珱姫はかっとなった。
せっかく遠い市まで出かけて手に入れた物なのに、
夫を想う気持ちを無下にされた様で、つい反発してしまった。
「そんな!この反物の柄はきっと妖様に似合います!
いつもいつも藍色系のお召し物ばかりですもの。
少しくらい暖色系の物を合わせてもいいじゃありませんか!」
「あー、違う、違う。反物の話じゃなく、その中身の事じゃ。」
冷静に訂正する狒々を横目に、ぬらりひょんはけらけらと笑い出した。
「総大将。たまには場の空気をお読み下さい。
我々がここを抜け出せるかこの中身にかかっているのですよ。」
呆れた様に牛鬼がぬらりひょんに釘を刺す。
「いやぁ〜すまねぇ、すまねぇ。
しかし可笑しくてよう。くっくっ・・・。」
全然悪びれていない様子で噛み殺す笑いが、珱姫の逆鱗に触れる。
「妖様っ!!」
思わず手近にあった反物を、鞠を包んだまま投げつける。
「おっと。ははは、悪かった。
お珱があんまりにも可愛いもんでなぁ。」
ぬらりひょんは目尻を幾分か赤く染めて笑っていたが、
足元に落ちた布を拾い上げた途端、潮が引くように笑顔が消えた。
その様子に珱姫は、猛然とした不安が足元から這い上がってきた。
「お珱、これは何に見える?」
「・・・?・・・鞠ではないのですか?」
反物に包まれた鞠を両手で掲げ、問いかけるぬらりひょんに
珱姫は幾分か戸惑った声を上げる。
「鞠・・・なるほど、鞠か。
・・・狒々、牛鬼。しっかりとお珱を支えておけよ。」
総大将の言いつけ通り、珱姫の手を取り体を支える。
ぬらりひょんが反物の端を勢いよく引っ張ると、
ころりと鞠が転がり出た。
その瞬間、珱姫は卒倒しそうになった。
ころりころりと鞠が転がるたびに黒い尾を引いて鞠が小さくなってゆく。
まるで何か球体の物に何かが巻きついていたかの様に。
解けた黒糸状の物に絡み付いて、茶色くすすけた物が転がり出た。
それと同時に酷い臭いが鼻をついた。
甘酸っぱい、すえた臭いが辺りに広がる。
女の、首だった。
珱姫は声にならない声を上げながら、狒々にしがみ付く。
「大方、あの稚児の母親じゃろうな。」
長い髪の毛を無造作に掴んで吊るし上げる。
「自分の子供より先に死んで、
子の行く末を想うあまり、取り憑いて衰弱させ、
自分で殺してしもうたのじゃろう。
本人に自覚はないじゃろうがな。」
ぱっと手を離すと、弾みもせず畳に落ちた。
祢々切丸で頭頂部から一突きすると、
乾いた音と共に眼窩から霧状の靄が立ち上った。
ガタガタと襖が揺れ、部屋中に何者かが走り回る音が響いた。
「しかし騒がしいのう。
息子もとうにおらぬのに、そんなに現世に未練があるのか。」
鬱陶しそうに祢々切丸を鞘に収める。
その言葉に呼応するかの様に、行灯の明かりが風も無いのに激しく揺れた。
「お珱もお珱じゃ。
名も顔も知らぬ者にのこのこ付いて行くな。
羽衣狐が去ったとて、生き胆信仰は妖怪の中で根強く残っておる。」
ぬらりひょんは両手を打って、行灯の代わりに鬼火を呼び寄せた。
「まぁ、普通の人間なら童の浮いた風体と、
夕闇の中、鞠を探してくれという無茶難題を吹っ掛けられた時点で気付くと思うがの。」
そんな異常事態の中、袂からなにやら取り出し夫は煙管をふかす。
「・・・・・・・。」
珱姫は返す言葉も無かった。
何より夫の平常然とした態度に、言葉を失くした。
遠くから大太鼓を叩く様な音が聞こえてくる。
「いくら祢々切丸でも残留思念までは切れねぇか。」
ぽりぽりと、顎を掻きながらぬらりひょんは呟く。
「おいおい、総大将。どうすんだ。
常世の境目が開いちまうんじゃねぇのか?
これが本家なら、いくら寝付きのいい鯉伴坊ちゃんでも
夜泣きするんじゃねぇのか?」
「阿呆。鯉伴様は御歳8歳だぞ。夜泣きなぞせぬ。」
牛鬼と狒々が顔を見合わせて、状況に見合わぬ掛け合いを言い合う。
珱姫はするりと二人の傍を離れて、落ちた首を持ち上げた。
これには牛鬼も狒々も驚いて、言い合いがぴたりと止んだ。
「・・・・この首を弔えば、
その母君も蔵王丸も成仏できるのでしょうか?」
真っ直ぐに自分を見る妻に、ぬらりひょんは僅かに目を見張った。
「お珱、ワシはお前の慈愛が深い事をようく知っておる。
だが見境なく情を持つのは感心せんぞ。
お前が情を向けている者は現世にしがらみを残した怨霊じゃ。
先程だとて、ワシが助けに来てやれたから良いものの
危うく常世への渡し舟に足を掛ける所じゃった。
最後まで責任を取れるのなら止めはせんが・・・・。」
「この母親はわたくしだったかもしれません。」
思いつめた表情で珱姫はぬらりひょんの言葉を遮る。
「・・・?・・・何を訳の分からん事を・・・・。」
鬼火の明かりで照らされた珱姫の頬は青く、
幾分かいつもと違う面相を見せた。
「もし、・・・もし幼い鯉伴を残して、
私が先に逝く事があったら、この母親の様になっていたかもしれません!」
近付いてくる太鼓の音を振り切る様に、珱姫は叫んだ。
「知らぬ土地に身一つで嫁いでくる女の気持ち、
ようやく授かった自分の血を分けた愛し子。
その幼子を残して逝かなければならない無念さ、
自分が感じた孤独を、我が子に味合わせてしまう悲しさ、
それがあの方達をこの場所に縛り付けているのなら、
あまりにも・・・哀れ過ぎます。」
大太鼓の様な地響きに合わせて、ざわざわと人の声が聞こえてきた。
それは木々のざわめきの様でもあり、潮騒の様でもあったが、
何かが井戸の底から這い上がって来るかの様に、恐怖とは切り離せない音だった。
すっと、目の前の襖が独りでに開いた。
そこはもう同じ部屋へとは続いておらず、
ただただ、漆黒の闇をたたえてぽっかりと口を開けていた。
相も変わらず神経をすり減らすざわめきは聞こえ続けている。
ぬらりひょんは立ち上がり、珱姫の肩を抱く。
『母上さま。』
子供の声がして、暗闇の中に童が浮かび上がる。
輪郭が青白くぼかした様に翳んでいた。
「・・・お珱。返事をするな。」
ぬらりひょんの掌が珱姫の肩を強く握る。
「いかがしたのじゃ?蔵王丸。」
声色が珱姫のそれとはかけ離れた返事を返す。
「お珱っ!!」
ぬらりひょんが慌てて身をゆするが、珱姫は応えない。
『あぁ、ようやく見つけました。』
ほっとした様に、蔵王丸は柔らかく笑う。
「おお、おお。
さぞや寂しかったじゃろう?
この母がそなたの母代わりの女を見繕って参った。
もうそなたには寂しい思いなぞさせぬぞ。」
抱えていた首の髪の毛が珱姫の体に纏わり付く。
傍らに控えていた狒々と牛鬼は刀を抜く。
『いりません。』
蔵王丸が、当然の様に言葉を放った。
「な、何故じゃ。
この女は珱姫と言うてのう。
京都でも評判の美女じゃった。
家柄も血筋も教養も美貌も、治癒の力もあるそうじゃ。
そなたの母であるにふさわしい。
そなたを守ってくれる、決して一人きりにはさせぬ。」
ぬらりひょんの手を振り払い、蔵王丸にしがみ付く。
その様子を蔵王丸はただ、邪気の無い笑顔で見つめる。
『母上さま。私にとっての母はこの世であなたお一人です。
いくら見目麗しかろうと、慈母の様に慈しみ溢れていようと
あなたでなければ私の母とは成りえませぬ。
だから、いりません。
その女の方を放して差し上げてくださいませ。
それに私はこの現世にはもうおりませぬ。』
「い、嫌じゃ。そなたは死んではおらぬ。
庇護すべき者が、母親が必要じゃ・・・・
死んでなぞおらぬ。死んでなど・・・・」
苦しむ様に首の遺骸を抱きしめて、無き咽ぶ
『母上さま、もう終わったのです。
何もかも。
母上さまが病で苦しむ事も、私が取り残される事も
こちらの常世では決してございません。
こちらへ、いらせられませ。
父上さまもお待ちです。さあさ、お早く。』
珱姫の手から首を受け取り、蔵王丸は闇の中へ滑り込む。
首が離れると珱姫は、がくんと膝から畳に倒れこんだ。
「お珱!大丈夫かっ!」
慌てて妻を庇うようにぬらりひょんは抱きしめる。
『珱姫様、ご迷惑をお掛けしました。
現世への結界を解いておきましたゆえ、いつでもこの屋敷から出られます。』
ぺこりとお辞儀をした蔵王丸は、もう殆ど闇に溶けて見えない。
『一つだけ、お願いがございます。』
蔵王丸は屈み込んで、ぬらりひょんに話しかける。
『貴方様が結界を破る為に粉々にした道祖神・お地蔵様をもう一度奉って頂きたい。
ここら一帯は合戦場があったせいか、残留思念が堪り易い地域なのです。』
「・・・・妖様。そんな事をなさったのですか。」
腕の中で意識を取り戻した珱姫が責める様に口を開く。
「・・・ん。まぁ、ちょっとな。」
歯切れが悪く頷く夫の表情に、くすりと珱姫は笑った。
『確かにお願いしましたよ。
屋敷を出るまでは決して後ろを振り返ってはなりませぬ。
まだ珱姫にかかっている呪は外に出るまで解けてはおりませぬから。』
「なんだい。イザナギ イザナミみたいな話じゃな。」
狒々が横槍を突っ込むと、ぬらりひょんは笑って応えた。
「後ろを振り返る必要はねぇさ。
お珱をこうやって抱き上げてりゃあ良いんだからな!」
またまた急に抱き上げられた珱姫は慌ててしがみ付いた。
「あ、妖様。庭に居たあの女の方もお助け下さい。
わたくしと同じ様に囚われていた様なのです。」
思い出した様に珱姫がぬらりひょんに話すと、
夫は困った様に肩をすくめる。
「おい。蔵王丸とやら。
お前の母親はあの身代わりの女をいつ連れてきた。」
蔵王丸に問いかけると、しばしの沈黙の後、声が返ってきた。
『現世での時間ですとざっと300年ほどかと。』
「・・・・ワシも生まれてすらおらんわ。
聞いたか、お珱。手遅れじゃ。外に連れ出せばあっという間に地に還る。」
「そんな・・・・・。」
一歩間違えば自分も同じ立場だったかもしれないと、今更ながらに震えが走る。
「行くぞ。ワシらも長居しすぎた。」
直ぐ隣の襖を開け放つと、庭の先に黄昏の霧に染まった門が見えた。
「お前ら!しっかりワシの後ろについて来い!置いていくぞ!」
ぬらりひょんが声を張り上げると、わさわさと妖気を纏った魑魅魍魎が現れる。
凍ったカラス天狗を抱えた雪女と木魚達磨が直ぐ後ろに付く。
緋色に滲む空を背に、百鬼夜行が群れを成して門を潜り抜けた。
「あの、妖様。わたくしはどのくらいの間
あそこへ閉じ込められていたのでしょうか?」
「丸3日じゃ。
しかし3日も独り寝とはきついものじゃぞ。
お珱は本当にワシをじらすのが上手いのう。
もちろん今宵、責任を取ってくれるんじゃろ?」
「え・・・・えっ、えええええ〜っ!!」
楽しそうに笑う魑魅魍魎の主は、しばらくその腕から珱姫を放す事は無かった。