いろは唄



ぱんっ!

行灯が仄かに照らし出す褥に、小気味良い音が響いた。

「・・・お、お珱・・・?」

打たれた左頬を現実味なく摩る。
対する新妻は、はらはらと美しいかんばせに真珠の様な涙を伝わせている。
状況が飲み込めない男は、ぱちくりと目を瞬かせた。
「妖様っ、珱は、・・・珱は信じておりましたのに・・・っ。」
感極まって、わあっ、と伏せて泣き出す始末。
慌てて機嫌を取り結ぼうと、妖怪の総大将は必死になる。
「ま、まだ痛い事なぞしてないぞ?」
何故か泣き伏せる珱姫の背中を擦りながら
おろおろと必死で説き伏せる。
「珱、お珱・・・本当にどうしたんじゃ?」
取り付く島もなく、泣きながらぬらりひょんの手を振りほどく。

(これはいかん。)

牛鬼は隣の部屋から襖に耳を当てて、一連の物事を盗み聞きしていた。
このままでは我らが魑魅魍魎の主がヘタレ認定されかねん。
私が愛した奴良組の重大なる危機だ。
細心の注意を払って、襖から身を離す。

ほんの十数分前、祝言の祝い酒にほんのり酔った牛鬼は縁側で酔いを覚ましていた。
ふと座敷を振り返ると鬼火がボヤを出しかけたり、
雪女が酔った勢いで周りの者を氷漬けにしてしまったりと、
座敷は完全に無法地帯と化していた。
そんなどんちゃん騒ぎの座敷からこっそりと抜け出し、
総大将と珱姫が寝室に滑り込むのを見かけた牛鬼は
何を思ったのかそのままこっそりついて来てしまった。

しかし総大将は一体何をしでかしたのか。
耳を当てても、襖越しでは中の様子が今ひとつ確認できない。

「何か情報を掴める糸口でも分かれば良いものを。」

自分が思った事が実際に間近で聞こえ、
牛鬼は声にならぬ声を上げながら声の主へ振り向く。

真横にカラス天狗がいた。

「な、な、なっ・・・・。」
「しっ!静かに。盗み聞きがバレてしまうではないか。」
指を立てて、牛鬼の動揺を叱咤する。
「決まっておろう。
奴良組の将来安泰の為に御伽坊主役をかって出たのよ。」
齢数十年、いや数百年を経た大の妖怪が
問題の当人達に気付かれぬ様に、
その図体とは反比例して小声で話し合う様子は奇妙なものだった。
先程の祝言の席で酒を飲みすぎたのか、カラス天狗の目は完全に据わっている。
「・・・・ただの出歯亀ではないか。」
牛鬼が呆れた様に鼻で笑うと、
意に介さずカラス天狗はにたりと笑いながら言い返した。
「ふん。貴様とて人の事は言えんだろう、
しかもわしより先にちゃっかり夫婦の褥にはべるとは・・・
お主もなかなか好き者・・・・」
「黙らんと彼岸に送るぞ、カラス天狗。」
「まぁまぁ、そう怒るな。
して、お主ならこの状況をどう見る?」
「・・・状況は極めてまずいな。
姫君は何か誤解されている。
総大将がそれに気付かんと朝までこの状況が続くぞ。」
「じゃろう?
せっかくの初夜が台無しじゃ。
そこでわしの登場という訳よ。」
鼻息荒く、そして酒臭くカラス天狗は杓錠を片手に襖を開けようとした。
「いざいざ助太刀致そうぞ!」
「ちょ・・・、待たんかカラス天狗っ・・・!」
止めようとした牛鬼がバランスを崩して襖に全体重を掛けた。

どたん!!と大きな音を立てて、襖が枠から外れた。
大の大人二人の重みに堪えかねて、部屋の中に倒れこむ。


「「「「・・・・・・・・。」」」」

部屋の中に4人。
もとい、人間1人と妖怪3匹。
みな一様に恐ろしいほどの静寂を持って見詰め合った。
あれほど泣いていた珱姫も、驚きのあまり泣くのを止めた。
耳に痛いほどの静寂を始めに破ったのは牛鬼だった。

「違います。総大将。我々はたまたまここを通り過ぎただけで。」
「総大将!私めは情けのうございます!」

牛鬼の言い訳と、カラス天狗の叱咤が見事に被る。
「牛鬼も、私も全て聞いておりました!
かの魑魅魍魎の主ともあろうものが、初夜の褥で新妻を泣かすなど!
・・・・あ、別の意味で泣かすことは一向に構いませんが
こんな序盤で引っかかるなど・・・・。」
せっかくなけなしの冷静さを掻き集めて言葉を発したものの、
隣にいるこの馬鹿鳥のせいで全てが明るみに出てしまった。
牛鬼はじっとりと全身に汗をかき、冷や汗が背中を伝うのが分かった。
下手すれば牛鬼組ごと潰されてしまうかもしれない。
「私めも、牛鬼も総大将の閨事まで口を出すつもりは毛頭御座いませんが、
正直申し上げて、最初からこの様子では先が見えておりますぞ。」
(・・・・やめろ。)
必死で隣にいる牛鬼が思念で制止を呼びかけているのに、
カラス天狗の饒舌が止まる気配はない。
祝言の場で雪女がカラス天狗を氷漬けにするのを止めなければ良かった。
深い後悔の念が牛鬼をさいなむ。

「いゃあ・・・いけません。いけませんな、総大将。
・・・女性とは前戯を大切にするものなのですぞ。
事もあろうにそれをすっ飛ばすなぞ・・・。」
(違う!それ以前で躓いとるのだ!!)
カラス天狗がやれやれと首を振る姿に無性に牛鬼は腹が立ったが、
この状況は明らかに自分達に歩が悪い。
下手に口を挟めば、得意の蹴りが飛んでくるかもしれない。
(沈黙は金だ。)
冷静に状況を読み解きながら少しずつ解決策を考えなければならん。
「後戯も大切にしたいですな。」
俯き、正座をしていた牛鬼の耳に信じられない言葉が届く。
(・・・こいつを止めるには殺すしかない。)
仄暗い決意を固めた牛鬼は固く手を握り締めた。
もしここに刀があったなら即座に切り捨ててしまいたいが、
残念ながら新婚初夜の褥にその様な無粋な物は持ち込んでいない。
となると素手か。
まず喉を潰さんと喋り続けるだろうな。
こうなると分かっていれば馬頭丸・牛頭丸を連れてくるべきだった。
上手くこの馬鹿を操って穏便に事を済ませられただろうに。
しかし、馬頭丸が祝い酒に手を出し、酔いつぶれてしまった為
牛頭丸はその介抱に手を焼かされている最中だ。
「なぁに、答えは簡単です。
3羽の子を儲けた私めの講義をよくお聞き下さい。」
珱姫はぽかんと口を開けたまま、ぬらりひょんに抱きしめられている。
カラス天狗の突然の登場と、その後に続く意味不明の講義に
あれほど出ていた涙も、すっかり止まってしまった様だ。
「まずは、総大将。
ひとつ伺いたい事がございます。」
「・・・・おう、何じゃ。」
「姫君にはどの体位から挑まれましたか?」

言葉を語り終えて、一瞬の間も置かぬうちに
牛鬼の扇子がカラス天狗のみぞおちを付いた。
それも容赦なく、渾身の力を込めて何度も。
「ぎゃああああぁぁぁ!!」
もんどりうって喘ぐカラス天狗を部屋の隅に蹴飛ばし、
牛鬼はぬらりひょんの目の前に座った。
「失礼致しました。
酒が過ぎたようで。あの馬鹿には悪気はございません。」
「ば、・・・・馬鹿とは、心外な・・・。」
搾り出す様に言葉を返すカラス天狗に、
牛鬼は一片の慈悲も表さず、ぬらりひょんを真っ直ぐ見た。

「恐れながら総大将。
先程、珱姫様に何をなされましたか?」
「口吸いじゃ。」
いきなり核心を突く牛鬼にぬらりひょんは平然と答える。
隣では珱姫が目尻に残った涙を拭っている。
「その時に他に何かなさいましたか?」
「ふうん・・・舌を入れただけじゃが。
その途端に頬を張られたな。」
「なるほど。ちなみに口吸いをされたのは今回が初めてですかな?」
「おう。そうだが。」
(女へ手を出す早さに定評がある総大将にしては珍しい。)
牛鬼がふと場違いな感想を胸の内で呟くと、
心の内を読んだかの様にぬらりひょんが牛鬼の頭をはたく。
「てめぇ、顔に出てんだよ。
いいか、お珱にそれ方面の事を吹き込むなよ。」
叩かれた頭を擦りながら、こくこくと牛鬼は頷く。
「・・・それならば納得がいきますな。」
頷いた牛鬼の視線は珱姫に移る。
「不躾ながら、姫様は男女の睦言には経験が乏しくておられる。
正に籠の中の鳥よろしく大切に育てられましたからな。
大阪城にて何か他の物の怪共に何かされたのでは?」
「ふざけんじゃねぇ!そんな事があって堪るか!」
普段は飄々とした総大将が顔色を変えてカラス天狗に食って掛かる。
「総大将、どうか落ち着いて下さい!」
牛鬼が慌ててぬらりひょんを押さえ込む。
ふと珱姫を見ると、完全に男達の話の内容を理解出来ていない様だ。
ほっと肩の力を抜くぬらりひょんに、牛鬼は続ける。
「申し訳ありません、私めが早計でした。
しかし私めが本当に言いたかったのは
あの狐に何か影響されたのではないかと・・・・。」
頭を垂れながら恭しく言葉を紡ぐ。
「そうか。なるほどな。」
するってぇと、あれか?
羽衣狐の肝吸いを見たのか?
たしかにありゃあえげつないのう。」
納得した様に、顎を擦りながら胡坐をかく。
「左様な事かと存じます。」

「わ、わたくし、やはり肝を喰われる為だけに連れて来られたのですか・・・?」

半分しゃくりあげながら、か細く言葉を繋ぐ。
この様な状況なのに、どこまでも美しく儚げで
人、妖怪を問わず思わず庇護欲をそそられる。
とにもかくにも、牛鬼の推測どおり
口吸いなど経験した事の無い箱入り娘が、羽衣狐の捕食を見てしまったが為に
接吻は肝を吸い取る行為だと刷り込まれてしまったらしい。
心底愛する夫に新床で口吸いをされ、
更に舌を入れられた事で珱姫はショックを受けたらしい。
抱きしめ合う事が最高の愛情表現だと信じている深窓の姫君は
深く傷付いた眼差しで夫であるぬらりひょんを見た。
「珱、お珱よ。ワシはお前の肝が食いたくて接吻したんじゃない。」
「あ、妖様…?」
珱姫の握りしめ過ぎて真っ白になった両手を、ぬらりひょんは優しく包む。
「ワシはお前を好いておる。前に言わなかったか?
惚れてなけりゃあ、わざわざ大阪城まで迎えに行く筈がないじゃろう?」
「あ・・・・・。」
「じゃから、安心してワシに身を任せてみよ。」
悪い様にはせん。と続ける夫に、
ぼうっと顔を朱に染めた珱姫が体の力を抜く。

「やぁやぁ、これにて一件落着ですな。」
「それでは総大将、お邪魔しました。
あとはお二人でごゆっくり・・・。」

「待てよ。」

何気ない一言なのに、カラス天狗と牛鬼は
肌にぴりりと勘気が走るのを感じた。
「ところでおめえら、何でこんな所にいんだ?」
にっこりと、それはそれはにっこりと。
百鬼の魑魅魍魎共を従える男は、立ち上がる悋気を身に纏う。
「ワシは一向に構わんがお珱が困るじゃろう?」
新妻を抱きしめたまま、カラス天狗達をじっとりと睨みつける。
二人は振り返りこそはしていないものの、
我らが総大将から今まで感じた事のない殺気が放たれている。
今振り返る事ができたのなら、石になれるどころではなく
間違いなく彼岸を渡らされる。
それも強制的に。

「あ、あの妖様っ。」

ふいに傍らにいた珱姫が慌てて声を上げた。
「誤解が解けた今、あとはただ眠るだけでございましょう?
何をそんなに怒っておられるのですか?」
珱姫のきょとんとした問いかけに、流石のぬらりひょんも言葉を詰まらせる。
その一瞬をついて、脱兎の如くカラス天狗と牛鬼は庭へと逃げ出した。
そのあまりの勢いに、庭に面した障子が豪快に破損し
遥か庭の端にまで吹き飛ばされてしまう程だった。
滑り込んできた春の夜風に珱姫が僅かに身を強張らせると、
ぬらりひょんはやさしく抱きしめ、耳元で囁いた。

「お珱よ、“恋のいろは”という物を教えてやろう。
なぁに、お主は目を瞑っていれば良い。」
「え?・・・・あの・・・・?」


珱姫が押し倒されると、間も無く行灯の火が音もなく掻き消えた。